Tomohiro Nakayama's Page

(profile というより、「備忘録」です もう若くないですから)
アメリカン・ポピュラーの某大作曲家のキッカリ30年後、仙台市で生まれました。

1997年から2010年の廃刊(休刊?)まで、13年間月刊「スイング・ジャーナル」のディスク・レビュアー、ライターを務めました。
(もちろん、本業は別にありました。NHK音楽伝統芸能番組部のディレクター、プロデューサーでした。こちらもジャズに大いに関係ある仕事でしたが、それはまたいつか、別に書きます)
これまでに書いたものは、自分がジャズ・ピアノを弾くので、やはりピアノ関係が多かったです。
現在は後を継いだ(ような)、月刊「
ジャズ・ジャパン」のディスク・レビュアーです。

「スイング・ジャーナル」の仕事でよく覚えているのは、ブラッド・メルドーへのインタビューです。新宿西口の、京王プラザホテルでした。
アルバム「Progression」が出た時で、その中のSublationという曲名が、哲学者ヘーゲルの「止揚:アウフヘーベン」という意味で、ビックリしました。
難しげなイメージがありますが、とても気さくな人でした。
ジャズ・ピアノを始めた頃からしばらくの間は、ウィントン・ケリー等ファンキーなピアニストを研究していたと言っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=CU97z-RJxpE で、その片鱗がうかがえます。
二度目にブルーノート東京の楽屋でお会いした時に、「今日演奏を見ていて、あなたがなぜあんなに椅子を低くしてピアノを弾くのか、その秘密がわかった」と言うと、
興味津々という感じで、「その秘密って?」と訊いてくるので、「演奏中に床に置いた(ペット)ボトルの水を取って飲むためでしょ」(実際そうしていました)と言ったら、「吹いて」くれました。

ライターとしての記事では、「エヴァンス派」について、エディ・ヒギンズを入れて書いてくれ、ってな難しい注文が印象に残っています、CD販売がからんでいたのでしょうね。
(白人ってこと以外、共通点がないじゃないか・・・60年代初めVeeJay盤のヒギンズなんて、ウィントン・ケリーにそっくりですが。)
その中で、「87年にドン・フリードマンが仙台に来た時、会場のワシントン・ホテルのロビーでお茶していたら、フリードマンがポツンと一人で大きなパフェを食べているのに気付いた、
柔らかな木漏れ日が降り注ぐ「A DAY IN THE CITY」の風景だった」ってなことを書きました。
この時、好きだったこのアルバムを持参してサインをもらえばよかったと、後からとても後悔する羽目になったから、よく覚えていたのです。
2010年の来日時に、ついに念願のサインをもらいました。あれから23年もかかりました。
そうそう、「『A DAY IN THE CITY』は、全曲が『Minstrel Boy』を基にしているが、この曲については詳細不明」てなことがライナー・ノーツに書いてありました。
これはアイルランド民謡で、彼の地では愛国的な歌としてとても有名だそうです。日本でも明治時代に訳詩が付けられて、唱歌(?)「吟遊詩人」となっています。
フリードマンはアイルランド系だったのかもしれません。シンプルな民謡から、ちょっと新しいモーダルな響きを作り上げたフリードマンは、只者ではない、と思います。

もう一つ、文脈無視の薀蓄めいて申し訳ないのですが(何しろ「備忘録」ですから)、バド・パウエルのブルーノート盤「アメイジング・バド・パウエル第三集 Bud!」に入っている、
ソロ・ピアノの「バド・オン・バッハ Bud on Bach」について、
https://www.youtube.com/watch?v=ARfHJe2h5B8
この「バッハ」は「大バッハ」、すなわちかのヨハン・セバスチャン・バッハだと思っている人が多いです。甚だしきは、この曲は「インヴェンション」だと書いたライナーノーツもありました。
しかしこの原曲は、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ作曲の「ソルフェジエット  Solfeggietto in C Minor, W.117 No.2」です。
つまり曲名の「バッハ」は「大バッハ」ではなく、その息子のC.P.E.バッハの事です。
https://www.youtube.com/watch?v=-6g-tWmOSso 参照)
レナード・フェザーが書いた原文ライナーノーツには、「ソルフェジエット」という曲名だけは書いてありました。
(そのせいか、バッハのソルフェージュだ、と書いてある日本語の「解説」もありましたが、そんなムチャな。)
この曲、左手のパートが、大バッハのような対位法と言うよりは、モーツアルトのオルタネート・バス(だったか?)に近い部分があります。
米国では、ピアノの練習曲か小品として、案外広く演奏されているのかもしれません。
このことは90年代末のスイング・ジャーナル(何年の何号かは忘れました)の「ディスク・レビュー」に、それまでの誤解を解くために、(恐らく)日本で初めて書いたのですが、
(こういう「ジャズ界の常識のウソを暴く」みたいなのが、好きだったのです。エラソーですね。まあ、音楽そのものについては、「常識のウソ」が案外多かったですから、当時のジャズ界は。
「アヴェイラブル〜」に疑問を持ったのも、その類かもしれません・・・)
今でも「大バッハ」だと思っている人が多いのは、とても残念です(まあ、どうでもいいか、これで世界が不幸になるわけじゃなし)。


著書:
The Guide Book of Jazz Standards(中央アート出版発売 中山智広 共著)
高木宏真さん、村上智一さん、山崎英幸さんと共著した、例の「青本」の解説書です。
1990年代、「ジャム・セッション」に通いつめた経験から書いています。
プレイヤーが参考にできる演奏を、CD名を上げて載せていることが「目玉」で、私はテンポ、キー(トーナリティ)に留意して、選びました。
Candyのリー・モーガン以外の演奏、I 'll Close My Eyes のブルー・ミッチェル以外の演奏なんてのも、載っています。
高木さんはその後も頑張って、「The Session 345」などを出版しています。

ジャズ批評ブックス 『定本ビル・エヴァンス』 −BILL EVANS−
ISBN4-915557-16-2/2003.6発行/本体1,905円+税/A5判/280P
この中のいくつか。

KAWADE夢ムック 増補新版 ビル・エヴァンス 永久保存版ムック A5 ● 232ページ
ISBN:978-4-309-97772-0 ● Cコード:9493
発売日:2012.05.17
この中の 中山智広 ビル・エヴァンス「音の構造」  いつ書いたんだっけ?「2001年刊行の同書に菊地成孔関連を増補」だそうで、ナルホド。
今見ると、間違いがたくさんあるような・・・(特に「リディ・クロ」周辺は・・・私はこれは理解不能という結論です、今では。
この「理論」で演奏している人なんて、本当にいるのでしょうか?)


もう今は、エヴァンスはあんまり聴かないのですが、そしてソニー・クラーク研究家のつもりなのですが、なぜか・・・
やはり日本では、エヴァンスは人気があって、一時は何でも「エヴァンス派」にしていたような、ジャズ・レコード業界でした。そうすると売れたのかもしれません。
(ブラッド・メルドーは、「progression」の自筆ライナーで、米国で自分がエヴァンスの影響下にあると書かれたことに対し、
「あまり聴いたことがない。白人=エヴァンスというステレオタイプはやめるべき」ってなことを書いていたと思います。)
でも結果的に「仕事」をくださったことになる、エヴァンスには感謝、多謝ですね。
最近では、そのエヴァンスの生涯より長く生きている自分が、何も出来ていないことに唖然とし、当然だとも思っています。

この他、90年代後半から、「ジャズ批評」にはいくつか書きました。
自分で一番よかったと思っているのは、2002年の110号「ソニー・クラーク特集」に書いた原稿です
その続きみたいなもので、「ジャズ・ジャパン」2011年3月号に書いた、「ワルツ・フォー・デビィの生みの親はソニー・クラークだったのか」も、よかったと思っています(自画自賛ですが)。
これはクラーク生誕80年に捧げた、「クラークマニア」の執念でした。これらを書かせてくれた編集部には、大感謝です。どちらも、本HPの「ソニー・クラーク研究のページ」に載せています。

そして2020年、「ジャズ・ジャパン」に「渾身の」ジャズ研究を書きました。
特集:ニッポン・ジャズ100年!1920年日本初のジャズ録音が行われた?JaZZ JAPAN Vol.115 | BOOKS | MUSIC LIFE CLUB
特集は“ニッポン・ジャズ100年 外伝?宮沢賢治は日本初の「ジャズ文学者」だった” 『JAZZ JAPAN Vol.116』発売 - amass
これはここ10年ばかり続けていた、「日本のジャズのはじまり」についての研究です。
詳細はぜひこの二冊を購入していただきたいのですが、概略は以下にあります。
2020年02月の記事 | 仙台発Jazz行き5分遅れ (jugem.jp)
2020年03月の記事 | 仙台発Jazz行き5分遅れ (jugem.jp)


CDのライナーなんぞもいくつかあります。ブラッド・メルドーの「ハイウェイ・ライダー」は、とても難しく、書くのに難儀しました。
最近では、井上祐一「ザ コア」バティスト・トロティニョン「ヒット」のライナーを書きました。CD業界衰退につき、これが最後かも。
(最近「ジャズ・ジャパン」のディスク・レビューも減っています。)

かなり前から現在まで、好きなピアニストは、クラークの他トミー・フラナガン、シダー・ウォルトン、ケニーバロンって感じです。あと、ハンク・ジョーンズ、ドン・フリードマンも。
この人たちの八分音符の「発音」が、好きなのだと思います。それに加えてシダーやケニーは、適度に「新しい」ところ。
そして実は、ジャッキー・マクリーン、ハンク・モブレー、グラント・グリーンが大好きで、彼らのLP、CDは相当持っています。

(以下は突然思い出した、全くのヨタ話です)
80年頃、つまり私が大学生の時、Blue Note盤はキングから出ていました。
ある時5枚シリーズの「ブルーノート・傑作選」盤(オムニバスですね)が出たのですが、この中にハンク・モブレーが含まれていなかったのです(J.R.モントローズはあったのに・・・すみません)。
大変な憤りを覚えたのですが、当時ブルーノートの未発表録音が、輸入盤で入って来ていました(LTシリーズ)。廉価な「カット盤(ジャケットの一部にハサミが入っている)」でどんどん買いました。
この中のモブレーの未発表録音、「Third Season」だったかの裏面に、「Blue Note発掘男」のマイケル・カスクーナ氏が、
「現在モブレーはフィラデルフィアにいる、肺を病んでテナーが吹けなくなっている、アルト、ソプラノは吹いている」と書いていて、
これを読んだ私は、社会人になったら金を貯めて、モブレーを日本に呼ぼうと思ったのでした。
当時のジャズ研仲間にも、モブレー好きがいて、「モブレーはB級とか言われるけど、プレイヤーではモブレー大好きな人多いですよネ〜」などと言っていたから、何とかなると思ったわけです。
しかしモブレーは86年、55歳で天国に行ってしまいました。85年のカーネギー・ホール「Blue Note復活コンサート」に呼ばれて、挨拶したのが最後でした。
この挨拶のEP盤が、コンサートの初版のLP3枚組セットに「ボーナス」として付いています。案外高い声で、意外でした。
後年、マイケル・カスクーナ氏と会う機会があり、このことをお話したら、すんごく盛り上がりました。カスクーナ氏も、相当な「モブレーマニア」だったのです。感動しました。
モブレーの挨拶は、カスクーナ氏がいなかったら、実現しなかったと思います。

現在は本業のサラリーマン転勤族を引退して、生誕地である仙台市在住。
最近わかったのですが、生まれてからしばらくは東仙台3丁目に住んでいたらしいです。利用駅は陸前原ノ町で、「はらのまち」に住んでいた、と言われていた記憶があります。
また、ある時、母が東北本線の東仙台付近で列車から見えた大きなアンテナを指して、「あの辺に住んでいた」と言っていた記憶もあります。
「伊勢堂下」という地名を覚えていますが、これはさらにその前にいたところかもしれません。
その後父親の仕事の関係で、東京に移りました。(つまり幼少時の仙台の記憶はほとんど残っていませんが、あと「丸光」で迷子になりかけた、というのがあります)

初めてジャズに魅かれたのは、1970年代半ば、高校の文化祭でした(東京の高校でした)。
同級生が演奏したジャズが妙に「大人っぽく」「クールに」聞こえ、それまでロックばかり聴いていた私に「化学反応」のようなことを起こしたのです。
ピアノは子どもの時に「バイエル」70番台で終わっていましたが(しかもそこまで何年もかかったのです)、大学に入ったら絶対にジャズ・ピアノを始めようと思いました。

幼少時に私がピアノを習いたいと言った動機は、友達がみんな習っているから、というイイカゲンなことだったと思います。
親はすぐやめる事を見越していたので、家にはピアノは無かったです。
実際始めて数年後、ダラダラになり、さっぱり練習せず、レッスンには外遊びで汚れた手のまま行って・・・で終わりました。親は正解でした。
当時=60年代は空前の「ピアノブーム」で、ある本によると、日本の全世帯の19%にピアノが普及し、これは米国の22%だかに次ぐ世界二位でした。
日本のピアノのブランド(メーカー名ではなく、蓋の裏やボディに書いてある名前、ヤマハ、カワイだけでなく、ローゼン何とか、何とかシュタイン、とか)は、400以上あったそうです。
そして某二大メーカー等の販売戦略によって、「ピアノは子どもの時から始めないとならない、大人になってからでは指が動かない」と散々脅されたものです。
しかし、この脅しは全く根拠なしです。
私の幼少時のピアノ練習はゼロに等しく、早々とやめて中断もあり、「子供の時にピアノを始めた」とは全く言えません。
マトモに指が動くようになって、ピアノを何とか弾けるようになったのは20代以降で、50代でも新たによく動くようになった指があります。
もちろん、その指を動かすことに特化した練習を、バカみたいに繰り返したからです。
しかし、大人のピアノ練習の強みは、「あれがやりたい」という「動機」が明確なことで、だから「バカみたいに繰り返す」ができるわけです。
しかも、ジャズピアノなら、クラシック・ピアノのように左手がよく動く必要もありません。ぶっちゃけ右手が何とかなればよいのです。
(以上は、大人になってからピアノを始めたい人への、エールです。不可能ではありません。あきらめないことです)。

FM放送の「アスペクト・イン・ジャズ」、「ゴールデン・ジャズ・フラッシュ」等を聴きあさり、カセットに録音しまくりました。。
油井正一さんの「アスペクト・イン・ジャズ ハンプトン・ホーズ特集」なんて、今でもテーマ曲(ジェリー・マリガンの「プレリュード」)と、続いての独特な語り口が耳にこびりついています。
そしてこのころハンプトン・ホーズの訃報が新聞に出ていて、若死に衝撃を受けました。もしかしたら油井さんのこの番組は、追悼特集だったのかもしれません。
この頃初めて、ジャズの「コピー」を(オルガンで)しました。
ハンプトン・ホーズの「枯葉」でした。欧州(イタリア?)でのライブ録音で、Jokerというレーベルの比較的珍しいLPだったと思います。

後年、何と油井さんは、私の妻(福島出身)の祖父の親友だったという事がわかりました。
そして私はNHKに勤務していた時、油井さん出演の番組の仕事をして・・・という「運命的奇遇」があったのですが、これはまた、いつか。
ここではあまり知られていない事実、油井さんは実は少年時代は福島市に住んでいて、福島との縁が深く、油井さんのお墓は今も福島市の信夫山にある、ということだけ記しておきます。
(Wikipediaにも出てないですね。神戸三中に入学される前のことです。)
まあ、私が「ジャズにハマった」のは運命だったのです、多分。

しかし当時は「クロスオーヴァー、フュージョン」全盛時代でした。
ある日から「アスペクト・イン・ジャズ」が半分の長さの一時間になり、半分は来栖あんなさん(ANNAさん ググっても画像はあんまり出てきませんね)の「ソウル&ディスコ」になりました。

私もロックからジャズに移ったので、チック・コリアの「銀河の輝映」とか、アル・ディメオラ「エレガント・ジプシー」とか、(バカテクのロックだと思って)随分聴いたものです。
そのせいもあってか、「白い」方が親しみやすかったようでした。あの頃一番好きだったピアニストは、(なるほど、確かに)ビル・エヴァンスで、
80年に亡くなるまでに、当時出ていたLPは中古盤でほとんど集めていました。

大学一年の秋、バイト代で初めてピアノを、それも東海楽器製のライトピアノ(電気ピアノ)を買いました。値段と近所迷惑を意識したわけです。
大学(もちろん音大ではありません)では、ジャズ研究会に入りました。しばらくして、それだけではジャズが弾けるようにならないことが判りました。
そこで、代々木の「ルーツ音楽院」(日本のジャズ学校の元祖の一つで、当時他にはANコンテンポラリーがあった程度でした)で、姫野孝子先生にジャズ・ピアノを習い始めました。
姫野先生は、吉祥寺にあった「Ham and Egg Club」(Funkyの系列店でした)でベースとのデュオで演奏していましたが、それがいい感じの演奏だったので、習おうと思ったわけです。
これが私の本当のピアノ学習のはじまりでした。

今から考えると当時は習ったことを、あんまり理解していなかったと思います。
何年も経って、後になってから分かったということが多く、ジャズ演奏の修得には一生かかり、それでも終わらない、と思わされます。
こんな生徒に教え続けてくれた姫野先生には、大々感謝です。
先生に教わったとっても大事なことは、ジャズには独特のリズム(グルーヴ、スイング)、発音があり、それをピアノも実行しなければならないことです。
(ある時先生がフレーズの発音をやって見せてくれて、それまで発音について自分は何も考えていなかったことが判り、驚きました。)
その意味からは、バド・パウエル、トミー・フラナガン、ハンク・ジョーンズ、ソニー・クラーク等、いわゆる「バッパー」が一番の基本であること、です。
レッスンでは、こういった人の演奏をひたすらコピー・・・先生は特にハンク・ジョーンズが好きだったのではないかと思います。
それから先生は菅野邦彦さんの演奏について、「この人はリズムが一味違うから」というような事をおっしゃって、レコードを貸してくれました。
青山のVANホールでのライヴ盤とか、大野三平さんとの共演盤とか・・・大野さんと菅野さんの「ノリ」の違いを聴きなさい、と言うような趣旨だったです。
菅野さんを聴いて、こんなに「タメ」があって凄いスイング感の人が日本にいたなんて、と大変驚きました。「慕情」、「枯葉」なんて、今でも時々聴いています。
これを聴くと、懐かしいあの頃の事が思い浮かびます(いよいよ歳とりました)。この大傑作は、ジャズ・ピアノを志す人にはマスト・アイテムだと思うのですが・・・。
(菅野さんは後年、「そうだよね、大切なのはスイングなんだよね」なんてお話を聞く機会が何度かあって、大変感激しました。
大御所ばかりのトリオで仙台にいらっしゃった時も聴きに行ったら、「今日はドラムの音大きいから大変なんだよね〜、わかるでしょ?」なんて言ってニヤリと笑っていたこともありました。
あれは1998年頃だったか。何だか通町のあたりにあったライブ・ハウスが会場だったと思うのですが、今ではもうその店は無いようです。)
そしてある日突然、それまであまり気にしていなかったホレス・シルヴァーの演奏の「発音」が凄いと気が付き、しばらく「はまって」いました。
これで自分の目指すべき方向が完全に見え、以後ぶれる事は無くなりました。「黒い」が好みになったわけです。

また、それまでよく聴いていたビル・エヴァンスの演奏を、この頃からあまり聴かなくなりました。60年代後半あたりからのエヴァンスの演奏が、かなり「走る」のが気になりだしたからです。
むしろ「走り」の対極にあるような、ゆったりしたノリのソニー・クラークが好みになりました。
この「走り」のことは、後年出たピーター・ペッティンガー著「ビル・エヴァンス ジャズピアニストの肖像」でも書かれていました。
(そして東海楽器製ライトピアノは、大学卒業の頃にはアクションがガタガタになって、ハンマーの打弦のポイントがズレてしまいました。これは製品の問題か、練習量の問題か?)

80年代後半は仕事の関係で福島に住み、ジャズ喫茶「ミンガス」通いが、唯一の楽しみのような生活でしたが、ここで演奏するようになりました。
現在まで続く「中山智広3」とのメンバーとは、ここで出会いました。そしてマスターとの付き合いも、現在まで続いています。

この間、1989年12月には、ジャッキー・マクリーンの青森でのコンサートがありました。
まだ新幹線は無く、盛岡で特急乗継して、福島から5時間以上かかりました。メンバーはマクリーンの他、ジャック・ウィルソン、ナット・リーヴス、トニー・リーダスだったと思います。
コンサートでは「サード・ワールド・エクスプレス」とか、「ナイト・アンド・デイ」等をやって、ジャック・ウィルソン・トリオで、「ひまわり」も演奏しました。
最後はマクリーン一人での「レフト・アローン」。伝統と新しさがブレンドした独特のサウンド、大きなノリ、そして何よりあのマクリーンのトーンを生で初めて聴けて、とても嬉しかったです。

終わってからLP持参(「スイング・スワング・スインギン」「イースタリー・ウインド」「クール・ストラッティン」だったかな?)で楽屋に行ったのですが、
マクリーンはすぐにホテルに戻ってました。何しろ楽屋に押し掛けたのは私だけで・・・。
ところがナット・リーヴスが声をかけてくれました。私は「マクリーンの大ファンで、今日は5時間以上かけて列車で来たのです」等々と言うと、
「明日の朝○時、○○ホテルのロビーにおいでよ、ジャッキーには話を伝えておくからさ」と言うのです。
さらにジャック・ウィルソンも「君はピアノを弾くのなら、椅子は高くした方がいい、パワーが出るよ」とか、いろいろ話をしてくれました。
そして、「ソニー・クリスと日本に来るはずだったけど、彼が直前に自殺しちゃって。でも、あれは不思議な出来事だった。
死ぬ前の日に彼とパーティーで会って、日本ツアーをとっても楽しみにしていたんだ、「ジャズが出来る」ってね。でも奥さんのことで悩んではいた・・・」なんて話も。
この時はマクリーンとウィルソンが共演した、ブルーノート盤「イースタリー・ウインド」も持って行ったので、ウィルソンたちにも「サインをもらったのですが、
本当にジャズ・メンはファンに対して親切で、ものすごく感動しました
(これが、初めて楽屋へ押し掛けた「体験」でした。いや、思い出しました。86年に、鶴岡に来たミッシェル・ペトルチアーニ・トリオの楽屋に、ミンガスのマスターと共に押しかけたのが最初でした。
これも印象深い出来事でしたが、詳細はそのうちに)。

次の日の朝、そのホテルに行くと、何と褐色の美女がロビーで私を迎えてくれ、「今ジャッキーを呼んで来ます」と言って、エレベーターに乗って行きました。
この人は、あの「Ballad for Doll」「Jackie's Dream Doll」の、ジャッキー・マクリーン夫人、Dollさんだったのです。
そしてしばらくして、本当にジャッキー・マクリーンが現れました。
持ち寄ったLP5枚に全てサインしてくれ、前日演奏した曲について、例えば、
「昨晩演奏した「ナイト・アンド・デイ」は「コルトレーン・チェンジ」を入れたんだ、ビ・バップ・アンド・ビヨンドって感じが好きなんだ」とか、解説までしてくれました。
私が、「あなたのbitter sweetな感じのサウンドが大好きです」と言ったら、「そうそう、sweetじやなくてね、僕は実はテナーみたいな音を狙ったんだよ、デクスター・ゴードンのような・・・」
というような事を話してくれました。そうそう、LP「Right Now」に入っている曲「Eco」は、日本人の女性の名前(えいこ)なんだよ、とも言ってました。
そして「you are my friend」と言ってくれたのです。

こんなジャズ史上の「偉人」が、自分の為に来てくれたなんて、全く夢のような出来事でしたが、この時私は、「ジャズは一生もんだ」とわかりました(そして英語の勉強が初めて役立ちました)。
マクリーンの「you are my friend」という言葉は、私の一生の宝物です。この言葉のおかげで、私は「本物のジャズを追及しなきゃダメだ」、と思い続けられました(まだまだできませんが)。

90年からは東京に転勤して、その頃始まった「ジャム・セッション」に盛んに通いました。主に阿佐ヶ谷「マンハッタン」、今は無くなってしまった、目黒「そのか」等です。
この二店は、ホスト・バンドにカルテットが入っていたので、自分の演奏の番でなくても、聴くだけでお金を払う価値があり、またプロがよく現れたので、何かにつけて得ることがありました。
それにしても、サラリーマン生活でもジャズを演奏する機会が出来たなんて、良い時代になったものだと思いました。
(学生を終わったら、プロにならない限り演奏機会はない、というのが学生当時の現実でした。)
下手すると水曜「そのか」、木曜「マンハッタン」の毎週二回通う、なんてことも。

「そのか」のジャムに最初に行った時に、マスターに「またおいでよ」と言われて、嬉しかったです。
「マンハッタン」の、ピアニストでもある望月マスターは音楽もよくわかっていて、好みも自分と合っていて、とてもいい店です(貴重映像コレクションもスゴイです)。
今でも時々一緒に演奏してくれる吉野ミユキさんは、当時新大久保にあった「Someday」のジャム・セッションに来ていました。
多分まだ当時は学生さんだったと思うのですが、「another you」を一緒に演奏させてもらったら、大きなノリがマクリーンそっくりだったので、(生を聴いたばかりだったので)強烈な印象を受けました。

97年から4年間、仙台転勤があり(この時からご縁があって、「スイング・ジャーナル」に書くことになりました)、
その間福島「ミンガス」で、今も続く「ジャム・セッション」を始めました。2000年の7月29日からです。
2001年に東京に戻ってからは、再び「そのか」「マンハッタン」通いが始まりました。

「そのか」のマスターが亡くなって、その後しばらくは有志によって続いたものの、遂に2004年には閉店になりました。
ところが、常連客だったボーカルの小柳和子さんが、「そのか」を引き継いで渋谷で「ko-ko」を始めました。
このあたりの「物語」は、ベースの松本(Big-M)勝之さんの、http://home.att.ne.jp/yellow/big-m/ に詳しいですね。

こうして渋谷「ko-ko」も出没先となりましたが、http://koko2poewr.exblog.jp/964986/ に松本さんとのライブの様子が出ていました。お懐かしい。

考えて見れば、私は「ミンガス」「そのか」「マンハッタン」「ko-ko」でジャズピアノを修得してきたのでした(まだ途中ですが)。
また、休憩時間中にホストやゲストのプロに聞いた話が、「ノリ」、「リズム」、「発音」等の、「本には出ていない、しかし最も重大な疑問の答え」のヒントになることが、多々ありました。
これらの店、マスターと、そこにいた、また一緒に演奏してくれたミュージシャンのみなさん、そして最初に本当のジャズピアノへの道を示してくれた姫野先生には、感謝の念が尽きません。

(未完 続きはそのうち というか、思い出しつつテキトーに書き加えています)


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